文芸部読切小説
『ビニール傘ブルース』山原和也・著

 僕は世界中に所狭しと並べられた偶像或いは傀儡、それらの一つとして気付けば生まれ落ちていた。妻の作った染みが渇いたのは気だるく浮上した朝日が八畳一間を照らした頃。ちょっと散歩にでも出ようか、なんて誘ったところでさして乗り気でもない様子の妻を連れ立った。
「どこに行くの」
やがて口を開いた彼女の不機嫌なこと。さっきまで晴れ渡っていたはずの空はどんどん様相を変えて曇天となり、無秩序且つ無遠慮に雨が降り始める。育児のためしこたま貯めたお金も今となってはただポケットの縫製をニュルニュル緩めていく重りでしかない。あんなに不機嫌だったはずの妻が、僕のポケットから五百円だけくすねるとビニール傘を何故か一つだけ買って、文明の利器たる透明の空の下、二人で逃げ込んだ。
「こうやって見ると、どこまでが空で、どこからが傘なんて分からないね」
彼女はさっさと笑顔を拵えて僕を見遣る。僕のほうはというと、お誂え向きの言葉になんと返せばいいのか分からなくて、俯いて見落とした先は確かなアスファルト。
「こんな奴と結婚して後悔した?」
迂闊に話し出すとまずい、昨晩平手打ちを食らい、妻を失望させてしまった言葉が脳髄から口先へ逃げ遂せた。
「……ううん」
くるりと表情が変わって、今度は呆れ顔。ごめんね。
 交際が六年と、結婚してちょうど一年が経った。昨日れいの白い建物を出てから想起したのはどれを取っても、どこを掻い摘んでも妻との記憶だった。高校の東階段で告白したこと、USJに行ったこと、同じ大学に行ったこと、留年しかけて怒られたこと、就職が決まって二人で同棲を始めたこと、プロポーズしたこと。当たり前という時間の流れに身を任せてきた僕にとって唯一のイレギュラーだった妻が何よりも尊くて、また彼女自身も僕を大切に思ってくれている。そんな事実が世界をグラデーション状に変えていった。
 晴れ間が見える。雨も上がった。少し残念そうに妻は傘を畳もうとして「やっぱりやめた」とまた開いた。天国と僕らの世界の境界線をあいまいに染め上げるビニール傘を、陽気に回して見せた。
 「これからも一緒に生きようね」
 ポケットから零れ落ちる小銭を止められないのは僕が情けなく泣き始めたからだった。君の言う「これから」と僕にとっての「これから」はこんなに違うのに、何もかもひっくるめて一緒にしてくれた彼女の一言はしかと琴線に触れてしまった。彼女が傘を持ったまま小銭を拾ったものだから僕の頭にビニールがぶつかって二人して笑いあう。
 所狭しと並べられた命は偶像でも傀儡でもなかったと、取るに足らない命の瀬戸際で証明して見せたのは妻だった。たった五百円のビニール傘で、僕たちの命を覆って、ほんの少しだけ命を取り戻した気がした。そうだよ、僕はまだ死んでなんかない。明日には会社を辞めて、妻との余生に興じようじゃないか。気付けば生まれていたのに、こんなに君を愛しく思って死ねるなんて、願ってもない幸福。それが少し予定より早かっただけ。今まさに広がりつつある肝臓の影に、西日が差し込む。明日も一日一緒に生きようね。

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