文芸部読切小説
『失くしたのは』河東晴明・著

 大学に入って三年目の春、志木原は重大なものを失くした。いったい何を失くしたのか、いく年かあとに志木原は大切な友人として私に慎重に時間をかけて話してくれた。そんな彼に敬意を表して、ここでは何を失くしたか明言はしない。

 それは志木原にとっても、彼の周囲の人間にとっても大事なものだった。そもそもそれは彼の所有物ではなかったのだが、ひとまとまりのグループの中で管理する者を決めなければならなかった。協議の結果、志木原が責任を持って管理することになった。それは一種、形式ぶった会合で、当然のことみたいに出席者の胸の内には議題の答えがあった。それは志木原自身もよくわかっていたことで、会の終了まで暗黙の了解が支配する、その冷凍庫の中のような空気は続いた。

 この時点で志木原がどのような社会的立場にあったかわかるだろう。ありていに言ってしまえば彼は非の打ちどころのない青年で、学業においてもそのグループにおいても優秀な人間だった。問題をあげるとするならたったひとつ、厳重に隠したプライドの高さだろう。しかしそれは内側だけの問題で、彼はたびたびその性格と現実との狭間で苦しんだが、それは彼のこれまでの実績の根源であったと言ってもいいし、外に漏れだすことは決してなかった。例の事件が起こるまでは。

 それが見当たらないと気付いたとき、彼はなんとか自分ひとりで解決しようとした。必ず自分のどこか近くにあるはずだと言い聞かせ、川辺の岩の底にひっついた虫でも探すように、部屋中をひっくり返した。――なぜこんなときに。志木原は珍しく焦った。近いうち、彼が管理していたものが必要になるときが来るからであった。見つからなければいずれ、この問題が露呈することになる。もみ消すことのできない明らかな彼の失態だった。数日後、志木原は仲間を前に自分が何かグループ全体にとって良くないことをしでかしたこと、すべて自分の責任であることを話し、頭を下げた。結局、期日までに失くしたものは見つからなかった。

 しかしこれは志木原自身が認める人生最大の失敗ではない。本当の苦しみはその後日譚にあった。一連の騒動がなんとか収まった後日、久しぶりに寒い風が吹く日であった。例の如くグループでの会合が終了し、教室の外に出ようとしたとき、志木原はおもむろに着ていたコートのポケットに手を入れた。そのとき手に当たった感触は忘れられないと志木原は言う。失くしたものが意外と近くにあったという話も例の如く、よくあることだった。彼がそれをひっぱり出し、仲間に見せると周囲が賑わった。ああ、よかったよかったと。志木原も顔をほころばせながら息をついたが、吐き出された空気は震えていた。手にとったそれは氷のように冷たく、その輪郭といったら彼がここ最近ずっと追い求めていた形よりもみすぼらしいようだった。おれはこんなに小さく色あせたものを必死で、ばかみたいに探していたのか? それで今になって出てきやがったのか? 自分の責任であると頭を下げた、あのとき圧し殺していた感情が胃液のように押しあがってきて、消雪パイプを通って四方に吐き出される様を感じた。次の瞬間には、彼はなにかわけのわからないことを叫びながら、それを床に叩きつけていた。あたりはしん、として小さくも鋭い音が教室に残った。そして志木原の手にはまだその冷たい感触が残っていた。

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龍谷大学新聞社トップページ 過去記事一覧 第617号(2016年4月号)